楽しい100歳。

SPECIAL

瀬名秀明

作家

畠賢一郎

富士フイルム株式会社
バイオサイエンス&テクノロジー
開発センター 副センター長
株式会社ジャパン・ティッシュ・
エンジニアリング(J-TEC)
代表取締役 社長執行役員

瀬名秀明 (せな ひであき)

1968年静岡県生れ。東北大学大学院薬学研究科修了。在学中に執筆した『パラサイト・イヴ』が1995年に日本ホラー小説大賞を受賞。その後、作家としてデビュー。1998年に『BRAIN VALLEY』で日本SF大賞を受賞。『八月の博物館』『デカルトの密室』『おとぎの国の科学』『境界知のダイナミズム』(共著)『この青い空を君でつつもう』など著書多数。

畠賢一郎 (はた けんいちろう)

1991年広島大学歯学部卒、1995年名古屋大学大学院医学研究科博士課程修了。名城病院歯科口腔外科、名古屋大学医学部附属病院遺伝子・再生医療センター助教授などを経て、2004年J-TEC入社。その後、2015年富士フイルム入社、R&D統括本部再生医療研究所長、2017年再生医療事業部長を歴任し現職。日本再生医療学会理事・産業推進委員会委員長、再生医療イノベーションフォーラム理事。

再生医療を
当たり前のものにし、
一人でも多くの人に
届けるために

「研究者、企業の努力で、再生医療の実用化の扉が開き始めた」(瀬名)

誰もがいつまでも健康で活き活きと暮らせる。そんな社会を実現するために、期待が集まっているのが再生医療。難病治療だけでなく、慢性疾患やアンチエイジングにも有効といわれる再生医療は、まさに人生100年時代の新しい医療です。しかし、多くの人がその恩恵を受けられるようになるには、まだまだ課題もあります。そこで再生医療の現状と今後の展望について、作家の瀬名秀明さんと、富士フイルムの畠賢一郎さんに語っていただきました。

今回、瀬名さんと再生医療についてお話をさせていただく機会をいただき、大変うれしく思っています。デビュー作の「パラサイト・イヴ(1995年、新潮社刊)」を読ませていただいたのですが、臓器移植のシーンがとてもリアルなのに驚きました。私はもともと自分自身で手術をやっていて、口腔粘膜の培養や移植手術もしてきました。ですので、当時のことを思い出す描写もあり、夢中で読ませていただきました。

瀬名ありがとうございます。私は薬学部出身で、手術の現場は見たことがないんです。あの小説は、臓器移植をしていた先生の講演を聞いたり、教科書を参考にしたりして書いたものです。当時は臓器移植に社会的な注目が集まっていて、その後、ヒトゲノム計画(※1)が始まります。人間のゲノム(遺伝子)をすべて解読するなんて本当にできるのだろうか、と当時は思っていましたが、今では数時間で一人のゲノムを解読できます。ここ20年ほどの遺伝子工学や分子生物学、医療技術の進歩は本当にすさまじい。iPS(※2)細胞なんて、当時の作家の想像力をはるかに超えています。

私も最初はiPS細胞に驚きました。細胞は様々な形に分化し、年をとり、死んでいく。そんなこれまでの常識を覆す、まさにパラダイムシフトでした。当社もグループ会社のセルラー・ダイナミクス・インターナショナル社(CDI社)で創薬支援向けに良質なiPS細胞を開発・製造販売していますが、iPS細胞の臨床利用には課題もあり、再生医療はまだまだこれから発展が期待される分野です。

瀬名2012年に山中伸弥教授がノーベル賞を受賞した後、再生医療に大きな注目が集まりました。当時は、iPS細胞から肝臓や腎臓をつくっておけば、病気になってもその臓器を移植し、人はいつまでも若く、健康でいられる。そんな夢物語が真面目に語られていました。ただ専門家に聞くと、iPS細胞から臓器をつくることは、実際にはすごく難しいようですね。

臓器はとても複雑な形をしています。仮に臓器を構成するすべての細胞をつくることができても、それを組み合わせて立体的に臓器の形にすることは簡単ではありません。

瀬名重力があるなかで、立体的に細胞を積み重ねて培養していくこと自体が難しいですよね。

そうなんです。iPS細胞から臓器をつくるためには、乗り越えなくてはならない壁が沢山ありますが、iPS細胞による細胞治療の研究開発は着々と進んでいます。富士フイルムグループでもCDI社が、オーストラリアの再生医療ベンチャーにiPS細胞を供給し、英国における世界初のiPS細胞による臨床試験の実施に貢献しています。これは、白血病の骨髄移植後に起きる合併症の患者さんに対し、 iPS細胞からつくった間葉系幹細胞(※3)を注射し、治療するというものです。そして富士フイルムはこれと同じ治験を、2019年に企業としては国内で初めて行う予定です。国からの承認が得られれば、製剤として医療機関に販売したいと考えています。

瀬名山中先生がノーベル賞受賞後、「まだ一人の患者さんも救えていない」とおっしゃっていたのが印象的でした。当時、iPS細胞の作製に成功したことと、それによって患者さんが救われることの間には大きな距離がありました。その後、様々な研究者や企業が実用化に向けた地道な努力を続け、その成果がようやく現れ始めてきたわけですね。

iPS細胞の臨床利用はこれからどんどん進むでしょう。再生医療はこれからの社会に大きなインパクトをもたらす、可能性に満ちた分野です。技術が確立されるだけでなく、産業として成立させ、一般的な治療として普及させていくことが大事です。そのうえで、私どものような民間企業が貢献できることは大きいと考えています。

  1. ヒト染色体の遺伝情報(DNA配列)をすべて解読し、染色体のどこにどんな遺伝情報が書かれているかを明らかにしようとする計画。
  2. 人間の体細胞に特定因子(初期化因子)を導入することで、人工的に作製する多能性幹細胞のこと。多能性幹細胞は無限に増殖し、体のほとんどの細胞に変化することができる。
  3. 骨髄や脂肪組織などのなかに含まれ、培養することで骨や筋肉,脂肪などに分化する細胞のこと。

「長年、培ってきた
写真フィルムの技術が、
再生医療に応用できる」(畠)

瀬名それにしても富士フイルムは、どのような経緯で再生医療に参入することになったのですか?

デジタル化によって写真フィルムの需要が急激に落ち込むなか、富士フイルムではそれまで培ってきた技術を活かしながら、ヘルスケア領域へ事業を拡大してきました。さらに今後、大きな成長が見込める再生医療の分野で、私どもの技術が応用できることが分かってきました。写真フィルムはコラーゲンを主成分に、20マイクロメートル(0.020ミリメートル)ほどの薄い感光層に約20層の機能別の層を形成させ、そこに100種類もの化合物を的確に配置し、多様な化学反応を制御する精密化学製品です。そこで培った加工、制御、生産技術は、細胞の培養や再生医療製品を安定的につくるうえでも応用可能だったのです。

瀬名私も学生の頃、細胞培養をやっていたのでよく分かります。細胞は生き物なので、一つひとつ品質や培養の難易度が違う。それをきちんとコントロールし、均一な製品をつくるのはものすごく難しいと思います。

ましてや再生医療は患者さんお一人おひとりの細胞を扱うカスタムメード、オーダーメードです。

一点ものをつくり上げる過程はものづくりの粋ともいえる、高度な技術が要求されます。特に、患者さんからいただいた細胞の培養で失敗は許されません。その点、富士フイルムにはものづくりのプロセスのなかで失敗を認めないカルチャーがあります。結婚式など、人生の大切な瞬間を収める写真フィルムには、不良品は絶対に許されません。写真フィルムは、もし不良品でも撮っているときはそれに気付かず、現像して初めて気付く特殊な製品だからです。そのため、品質を徹底的に追求するものづくりのマインドが、会社全体に染みこんでいるのです。

瀬名企業として長年、ものづくりに真摯に向き合ってきたからこそ培われた知恵やノウハウが医療に活かされる。まさに21世紀の医学と工学の融合ですね。

富士フイルムは画像診断機器や内視鏡、医薬品も扱っていて、医師とのつながりも強い。また再生医療に必要な三つの要素である細胞・足場材・培地を自社グループですべて持っていることも強みです。足場材は細胞を立体化するために必要な材料で、培地は細胞の栄養や成長を促す因子です。特に高性能な写真フィルムをつくるために、独自開発したゼラチンは、細胞の培養や立体化に大いに役立つと考えています。

再生医療に必要な3要素 再生医療に必要な3要素

植物に例えると、細胞が種、培地・サイトカインが
肥料、そして足場材が苗床に相当する。
細胞(種)の成長を培地・サイトカイン(肥料)が
促進する。そのための土台として、
足場材(苗床)が必要となる。

瀬名写真フィルム製造のための技術を医療に使うなんてアイデアは、作家の想像からはなかなか出てきません。まさに発想の転換の産物ですね。

将来的には、足場材をうまく使うことによって、臓器を立体的にするためのユニットをつくり、これを組み合わせて大きな臓器ができないかと考えています。細胞を培養して立体化するときの最大の課題は、細胞の塊だけでは中まで栄養が浸透しないということです。

血管が通っていないからですよね。そのためわずか数ミリの塊でも、中の細胞たちは死んでいきます。しかし、私どもの特殊なゼラチンを足場材として使うと、血管が入っていきやすい立体を作れるのです。

瀬名足場材を使うことで血管が自律的に作られて、栄養素や酸素が内部に供給できるわけですね。これも細胞を培養しているだけの企業では思いつかない、面白い発想だと思います。

足場材を使って細胞を立体化する仕組み 足場材を使って細胞を立体化する仕組み

「培養した細胞による
治療を、普及させる環境が
ようやく整ってきた」(畠)

細胞の立体化はこれからの課題ですが、細胞を培養して治療に使うものとしては、私が社長を務めるJ-TEC(富士フイルムグループ)が開発した自家培養表皮と自家培養軟骨がすでにあります。患者さんの皮膚の細胞を培養してシート化する自家培養表皮は、日本初の再生医療製品で、やけどや先天性巨大色素性母斑(※4)の治療に使われています。患者さんの軟骨の一部を培養して移植する自家培養軟骨は、これまで自然治癒が難しかった外傷性軟骨欠損症または離断性骨軟骨炎の治療を可能にしました。

瀬名手塚治虫さんの漫画『ブラック・ジャック』では、主人公が大やけどをして皮膚を移植するのですが、自分の皮膚が足りなくて他の人の皮膚を移植したため、そこだけ顔の色が違うんです。当時、自家培養表皮があれば、自分の皮膚の細胞を培養していくらでも皮膚をつくれるので、ブラック・ジャックの顔も変わっていたかもしれません。いずれにしろ自家培養表皮も自家培養軟骨も患者さんの細胞を培養して体内に戻すという、従来の薬とも医療機器とも異なるアプローチの治療法ですね。承認をとり、患者さんや医師の理解を得るまでには、ご苦労もあったのではないでしょうか?

体外で培養した細胞を体内に入れることへの抵抗感は、今でも多くの方がお持ちです。そこをどう理解を広げていくか。私どもも大変苦労してきたところであり、これからも大きな課題です。また再生医療に関しては、全ての医師が深い知識を持っているわけではありません。私どもの営業担当が使い方などについて丁寧にご説明し、粘り強く理解を深めてもらう必要もあります。

瀬名再生医療の普及、啓蒙においては企業が大きな役割を果たすのですね。私は再生医療に対する一般の人の不安は、ある程度時間が解決してくれる気がします。40年前に試験管ベビー(※5)の技術が登場したときは、まるでモンスターのように恐れられました。でも時間が経った今では体外受精は不妊治療の一つとして、普通に受け入れられていますからね。

そうですね。昔は誰も治療のために体内に細胞を入れるなんてことを想定していなかったので、法律も整備されておらず、承認をとるのに苦労しました。でも 2014年の法改正(※6)により、今では日本は先進国でも再生医療製品の承認がとりやすい状況になっています。いよいよ、企業が実用化に向けて力を発揮できる環境が整ったのです。

  1. 生まれつき、メラニン色素による大きな黒褐色のあざがある疾病。巨大色素性母斑は悪性化すると皮膚癌のなかで治りにくい悪性黒色腫になると言われており、従来の治療法では10回以上の手術が必要になることも少なくない。
  2. 女性の卵巣から卵子を採取し、顕微鏡下で受精させ、培養したあと女性の子宮内に戻す。そのような体外受精によって生まれた赤ん坊のことを、かつてそう呼んだ。
  3. 2014年薬事法の改正により、「再生医療等製品」という独立したカテゴリーが新設されたことで、再生医療等製品の特性に応じた安全性、有効性の評価が可能となった。

「若返りも可能にする
再生医療は、私たちの
健康観を変える」(瀬名)

瀬名実は山中教授がノーベル賞を取ってすぐ後に、再生医療をテーマにした小説を書いてほしいと編集者から頼まれ、色々と取材をしたことがあるんです。当時、お話を聞けるのは基礎系の研究者ばかりで、企業の取り組みはまだこれからという状況でした。あれから6年たった今日、畠さんのお話を伺い、いよいよ日本でも企業による再生医療の実用化が本格的に始まったのだなと、感慨深く思いました。富士フイルムグループとしては今後、どのような取り組みを進めていくのですか?

まずは、いまだ有効な治療法が確立されていない疾患に対する医療ニーズ、いわゆるアンメット・メディカル・ニーズに応える必要があります。当社は、CDI社の高品質なiPS細胞を使ったさまざまな疾患の治療法の研究開発を進めています。まずはこのような治療を当たり前のものにしたいですね。そのうえで症状が悪化する前に食い止めるような、アンチエイジング的な医療ケアの事業化も考えています。例えば、ある細胞を血液中に入れると分化して血管が元気になる、といったようなことです。再生医療によって、メタボや心筋梗塞、糖尿病など、現在の治療では対応しにくい慢性疾患に対しても有効な、新しい医療をつくっていきたいですね。

瀬名難病を治療するだけでなく、未病の状態、健康な状態をいかに持続させるか。そのために再生医療が有効なわけですね。

今、人生100年時代などと言われますが、単に寿命を延ばすだけではなく、健康で活き活き暮らせる状態で100歳まで生きることが大事です。そのために再生医療は、大きな貢献ができるはずです。

瀬名再生医療は人間が本来もっている再生能力を強化し、場合によっては若返りも可能にする。今までの医療とは発想が異なり、治療もオーダーメイド型のものになっていく。その普及とともに、医療や病院のあり方、私たちの健康観や病気との向き合い方も、大きく変わっていきそうですね。例えば、昔はどこの街にも小さな写真店があって、写真フィルムの現像をしてくれましたよね。細胞を預かって、若返らせたり、診断してくれたりする。未来では昔の写真店のように、再生医療が身近なものになるといいですよね。

それはいいですね。また再生医療は現段階ではお金も時間もかかります。これを、いかにコストを下げて身近なものにし、多くの患者さんのもとに届けるか。それが企業としての最大の責務だと考えています。

瀬名これから人類は100歳まで生きることが当たり前になり、今の私たちの常識や倫理、そして人生観も大きく変わっていくでしょう。そこに再生医療がどのような形で関わり、貢献していくのか、とても興味深いです。また先端技術が社会に浸透していくうえでの企業の重要性も、改めて痛感しました。今後の富士フイルムの取り組み、再生医療の展開に、期待したいと思います。

パラサイト・イヴ 新潮社刊

パラサイト・イヴ 新潮社刊

あらすじ/生化学者の永島利明は、不可解な交通事故で亡くなった愛妻の肝細胞を密かに培養する。Eve1と名づけられたその細胞は、やがて恐るべき未知の生命体へと変化し、暴走を始めるーー。瀬名氏が大学院博士過程の研究者時代に執筆した、バイオ・ホラー小説の傑作。

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