楽しい100歳。

SPECIAL

福岡伸一

生物学者
青山学院大学
総合文化政策学部教授

戸田雄三

富士フイルム株式会社
元取締役副社長・CTO

写真フィルムで育んだ技術が、最先端のライフサイエンスを切り開く

「写真フィルムで培った光や色、膜を制御する技術は
化粧品や医薬品にそのまま応用できる」(戸田)

写真フィルム中心の会社から、化粧品・サプリメントや医薬品で人々の健康をトータルに支えるヘルスケアカンパニーへと大きく事業の舵を切った「富士フイルム」。事業転換を支えた技術やその意義について、同社CTOである戸田雄三副社長(2018年6月28日退任)と、生物学者の福岡伸一青山学院大学教授が語り合った。

福岡富士フイルムは、 “ 写真の会社 ” から、化粧品や医薬品、再生医療などのヘルスケア領域を広くカバーする企業へと変貌を遂げたのですね。この事業転換はどうして可能になったのですか?

戸田カラーフィルムを生産している会社はそもそも世界にたった4社(※1)しかありませんでした。これは、カラーフィルムの製造技術は他に真似ができないほど高度で奥が深いということの裏返しでもあるのです。この技術をほかに活かすにはと考え、まず取り組んだのが化粧品でした。フィルム技術が直接活かせる分野だったのです。

例えば、カラー写真は紫外線が当たると酸化して色あせますが、当社には酸化を防ぐための豊富な技術の蓄積があります。また、写真はフィルム上の粒子が可視光線をとらえて画像を記録する訳です。このように光を制御する技術は、肌の老化を引き起こす紫外線を効果的にカットする日焼け止めに応用できる。機能性化粧品「アスタリフト」(写真1)は、こうした写真フィルムの研究開発で培った高度な技術によって支えられています。

今、力を入れているiPS細胞や人工皮膚など再生医療分野でも、細胞を増殖させるための足場となる素材が欠かせません。そしてそこには、写真フィルムの主原料であるコラーゲンが使われています。 “ コラーゲンのプロ ” としての技術が活きているのです。フィルムを日本語にすると「薄膜」ですが、繊細なフィルムを扱う技術は、当社のヘルスケア事業が対象としている皮膚や細胞膜など人体の膜の攻略技術につながっています。

  1. 富士フイルム、コニカ、米国のコダック、ドイツのアグファの4社。

福岡写真というのは、流れてゆく時間を画像で留め置きたいという人間の願望から生まれた技術です。その瞬間に至るまでの過去の時間とそこから始まる未来の時間を封じ込めたものが写真。でも、力のある写真には、止まっている時間を動かす力もある。杉本博司という写真家がいますが、彼の出世作の一つはアメリカ自然史博物館に展示されている「山のジオラマの中にいる剥製の狼」を撮ったものでした。その写真を見ると、剥製の狼が今にも動き出しそうに、生きているように見える。

写真フィルムの技術とはまさにそういうもので、もともとは光のエネルギーの強弱をある化学反応の結果として固定したものですが、そこから時間を回復させることも可能なのです。一方、化粧品は皮膚という生きたフィルムの上で移ろう多彩な光と影をコントロールする技術。両者には共通するところが多い。

戸田私は、まだ当社が写真フィルムとカメラを主な事業としていた時代に入社しましたが、新人研修で製造係長が、「うちが売っている最も大切な商品は何か?」と皆に問いかけた後、『信頼』」と大きく板書したのが強く印象に残りました。
いい言葉だと感動したのだけれど、その時は背景にある意味まではわかっていなかった。仕事を通し、写真は人生の1回しかない瞬間を切り取る、失敗が許されないもの――このことを骨の髄まで理解することで『信頼』の本質がわかりました。

写真の出来が悪いとき、「腕が悪い」「カメラが悪い」とは言っても「フィルムが悪い」という人はいない。フィルムのクオリティにはそれほど圧倒的な信頼があるわけです。生まれた直後の赤ちゃんを撮影して、写っていなかったら取り返しがつかない。信頼という言葉に向き合うときの緊張感は、生命現象にかかわる医薬品や化粧品を作る今も変わっていません。

「アスタリフト」のシリーズ

写真1:透明な赤いジェリーやホワイトシリーズのUVが大人気の機能性化粧品「アスタリフト」のシリーズ

「これからの医薬品は、
生命が “ 動的平衡 ” 状態にあるのを前提とする必要がある」(福岡)

福岡生物学に「全体は部分の総和」、つまり一つの生命体はいろいろな部位が集まったものという考え方がありました。しかしその後、生命現象は「部分の総和以上の何かを持つもの」だということが明らかになりました。どんな要素で構成されているかという面だけを見て、その要素の順番や並び方、時間経過などは考えなかったのが20世紀型の生化学の考え方、すなわち要素還元主義ですが、実際の生化学反応はもっともっと複雑かつ神秘的で、そう単純には説明ができないものだったのです。

例えば、人体でエネルギーが作り出されるシステムでは、6個の酵素が順番にブドウ糖に反応していって細胞のエネルギー源であるATP(アデノシン三リン酸)を生み出します。ところが試験管にこの6種類の酵素とブドウ糖を入れてもATPはできません。要素が揃っていても反応が起きないのは、細胞膜のような顕微鏡では見えない構造を持つフィルムの上で反応が起きているからです。フィルムが持つ設計図中の座標に、特定の酵素が固定化されることで、はじめて他の酵素の相対的な位置が決まり、化学反応が起きるわけです。

実際の生命は絶え間なく動き入れ替わりながら、全体として同じ形、つまり恒常性を保っている。一見じっとしているように見えても、生物や自然は常に動きながらバランスをとる “ 動的平衡 ” の状態にあるのです。

戸田 “ 動的平衡 ” は、福岡先生のご著書のタイトルにもなっていますね(写真2)。

まさに当社は、そうした観点で予防や医療の世界に関わりたいと思っているんです。DNAも、たった4つの塩基の並び方だけで様々な生命情報を伝えていますが、並べる順番でまったく情報の質も違ってきます。だからこそ、生命現象のあり方を全体として見つめる動的平衡の観点を大切にしながら、写真フィルムで長年培ってきた技術で化粧品、医薬品の分野を切り拓いていきたい。これが目指す方向です。

例えば抗がん剤。抗がん剤はある意味、毒でがん細胞を叩く薬ですから副作用が強く、がん細胞だけじゃなくて正常な細胞も叩いてしまう危険性を伴います。つまり従来の抗がん剤は「正常細胞まで叩いて身体の動的平衡を崩す」という欠点を持っているわけで、本当はがん細胞だけに薬を届けたいわけです。これがドラッグ・デリバリー技術で、当社はそれを真剣に実現したいと思っています。対象とするがん細胞の性質をより深く見極めることで、これまでの抗がん剤の欠点を克服しようとしているのです。

当社が開発しているリポソーム製剤は写真フィルムの製造で培ったナノテクノロジーを応用して、脂質膜で作った極小のカプセル(リポソーム)の中に抗がん剤を入れたものです。カプセルが血管中を回っている間は安定していて壊れないけれど、がん細胞にたどり着くと、そこではじめて内部の抗がん剤を放出する仕組みです。抗がん剤ががん細胞に効率的に届くので、この技術を使えば副作用は格段に減り、中に入れる薬の量も減らせます。

福岡これまでの薬は、飲んだら体全体に届くという仕組みだった。すでにそんな時代ではなくなっている。医薬品にも動的平衡の考え方が必要だというわけですね。

動的平衡

写真2:生命現象を、パーツの単なる寄せ集めではなく、
個々のパーツ同士がたゆたう時間の中で互いにバランスを取っている状態
(=動的平衡)という観点で考察した一冊

「人間の多様性を大切にした、テーラーメード医療の実現を目指す」(戸田)

戸田従来型の体全体に届ける薬剤の仕組みは感染症との闘いから出て来たモデルです。血液中の病原体は全身を巡るわけですから。

これまでの薬では一般的に、体格や体質などが十分に反映されないまま誰にでも同じ量が出される場合が多かった。こうした薬の使い方には疑問が残ります。これからの医療は人や人体の多様性に目を向ける必要がある。「みんなに同じ治療法なんてあり得ない」というのが我々の立ち位置です。3Dやレーザー技術を用いて患部が立体的かつ明瞭に見えるようにした当社の画像診断システムも、個のための医療、つまりテーラーメイド医療を支える技術だと自負しています。サイエンスがどんどん進んでいるので、それをフルに使って少しでも理想の医療の実現に近づきたい。

福岡本来、生物はどの個体の生命も「一回きりの命(一回性)」で、二度と同じものは現れない。しかし、生物はこれまで、個体の命より種の保存を優先してきた。人間は「種全体の存続よりも個人に価値がある、一回きりだからこそ個々の命は尊い」と考えるようになった最初の種であり、遺伝子の命令から自由になった生命体です。

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一人の科学者だけが操作できる技術は科学では認められない。ある方法にのっとればだれにでも再現できなければなりません。一般的にエビデンス(科学的根拠)や平均値が重視されますが、本当のエビデンスは個人個人で違う。つまり、現在のエビデンスに基づく医療は、個々の生命体が違う反応をするという事実と矛盾する面もあるわけです。メディスンは個人個人の問題なので、医師は、共通点を踏まえつつ、最終的には個別に対応しなければいけない。究極の医療は1対1にならざるを得ません。

戸田サイエンスはバラバラの要素を見る必要もあるけれど、全体を見たうえで要素を組み立て、正確に再現することも求められる。動的平衡とはそういう意味ですね。

私たちは「アンメットメディカルニーズ」、すなわち現段階で治療法が確立されていないがんや認知症といった病気に対する研究に力を注いでいます。ただ、これらの病気は老化との関係がとても大きい。老いに伴い、体の動的平衡が少しずつずれていくといいますか……。

福岡

そうですね。動的平衡が追いつかなくなった状態が「老化」ですから。

「“無賃乗車の寄生虫”と思われていた腸内細菌も、今や免疫の主役」(福岡)

戸田今一度、人体についての知見という「原点」に立ち返り、微小な組織からその総合体である人体の全体までを正確にとらえることの大切さを感じています。

例えば、食事で摂取した糖質の吸収を抑えるという機能性表示食品「メタバリアS」(写真3)。この製品に含まれるサラシア由来サラシノールには、炭水化物が小腸でブドウ糖に分解されるのを抑え、体内に吸収される量と速度を緩める作用がありますが、これが同時に腸内環境を整えることが分かりました。現代人は食生活の急激な変化により、在るべき腸内細菌のバランスが狂ってきています。

「サラシア由来サラシノール」のメカニズムでは、消化吸収されなかった炭水化物が大腸に届いて、それが腸内の有用菌のエサになるわけです。人にとってはとりすぎないほうがいい栄養素を腸内細菌に分け与えることで、腸内細菌も元気にし、人も元気になる。健全な「腸」は我々の健康を増進します。糖の吸収抑制と腸内環境の改善という一石二鳥の製品なのです。

福岡なるほど。カロリー計算だけで食事をとらえるような考えからは出てこない思考法ですね。人体という精妙な構造を利用している。

ひと昔前は無賃乗車している寄生虫(笑)だと思われていた腸内細菌も、今や健康維持のためのキーファクターとして脚光を浴びていますね。そして腸内細菌はお母さんから子供に受け継がれるというのも興味深い点です。生まれる時に、悪い菌の繁殖を抑えて乳酸菌が大勢を占めている産道を通ることや、授乳を通して母乳中にいる菌や乳房周辺の肌にいる菌を口から取り込むこと、そしてスキンシップなどを通して、自分の肌や腸内細菌をつくるタネ菌を得て行くわけです。

こうして、母親は自分の子供に有用な菌をプレゼントしてゆく。生命というのは要素の寄せ集めではない構造を作って成り立っていることが、ここからも分かります。医療テクノロジーもそこを無視してはいけない。

戸田おっしゃる通りです。実は今年3月に、「バイオサイエンスアンドテクノロジー開発センター」を設立しました。薬や細胞、そして今話題に出た腸内細菌というのは、ビーカーの中の実験でいい結果が出ても実際の生体中でも同じような結果をもたらすとは限らない。体内組織内部の微小な環境の正常化、すなわち体の中で起こっている微細な現象を正確に知り、再現した上で運用し利用しなければいけない。

機能性表示食品「メタバリアS」

写真3:食べたものの糖の吸収を抑制し、腸内環境を整える
機能性関与成分「サラシア由来サラシノール」を配合する
機能性表示食品「メタバリアS」

「脳や体は老いるが、
心はいくつになっても自分で若く保つことができる」(戸田)

戸田100歳まで生きるのが当たり前になる時代の到来を踏まえて、富士フイルムは「楽しい100歳。」という企業メッセージを打ち出しています。人間には、体と脳と心という3つの大切なものがありますが、体は老いても、心は自分で若さを保てるはず。私は、「楽しい100歳。」というメッセージにこのような意味を込めたいと思います。

心と密接な関係を持つ脳にも、筋トレで肉体を若く保つことのようなアプローチがありうるのでないか。一例として、アスタキサンチンという成分には抗酸化作用がありますが、それが脳を守ることにもつながらないか検証してみたい。脳は人体で一番酸素を使う器官だから、すぐに焦げついて(酸化して)しまいます。少々焦げてもいいように膨大なネットワークと修復機能があるわけですが、それが追いつかなくなったら病気になる。その予防に抗酸化物質が働く可能性がある。
さらに脳のネットワークの解明が進めば、いろいろな手立てが出てくるはずです。当社は認知症とその治療薬の研究を進めているので、成果を楽しみにしていてください。

福岡生物界を見渡すと、「老後」がある生物はほぼヒトだけです。ほとんどの生物は生殖年齢を終えると寿命を迎える。人間だけが生殖が終わってもさらにその後を生きる。そこには進化的な理由があるはずです。

老年期になると運動能力や記憶力は衰える代わりに、世界を統合的に見る能力が高くなる。「老年的超越」が獲得されて、家族や会社のしがらみから超越し、近視眼的な損得勘定からも自由になって、世界を広く見渡せるようになります。これが「賢者の知恵」。そのことが若い世代に有益だから人間には老後があるのではないでしょうか。だから、お年寄りがより自由に、いろいろなことを考えられるようにすることが大切で、政治や社会はその自由を保障する方向に動くのがいい。インターネットや自動運転なんかはそうですし、さらに老年的超越をサポートするサービスや商品が求められるでしょう。

戸田「老年的超越」とはいい言葉ですね。100歳時代が来た時に、「私は自分が好きだ」「この世に必要な人間だ」と100歳の人が思えるように世の中が変わっていないと、不幸な高齢者をたくさん生み出しかねません。年を取って期待される役割がある。そうした社会を作らないと。

事業を検討するときに重要なのは、技術力などの経営資源を踏まえた“やれそう”、市場性・ユーザーニーズなどの合理性に基づく“やるべき”、そして使命感・情熱すなわち“やりたい”の3要素ですが、一番大切なのが「やりたい」という思いでしょう。このような「やりたい」をこの先も大切にして、富士フイルムはテクノロジーをどのように社会に役に立てられるのかを常に考えていきます。

福岡伸一 (ふくおか しんいち)

生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て青山学院大学教授・米国ロックフェラー大学客員教授。サントリー学芸賞を受賞し、80万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)など、“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。6年ぶりのシリーズ最新刊『動的平衡3』(木楽舎)を2017年12月に刊行。

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